最先端研究探訪 (とくtalk127号 平成19年4月号より)

2008年7月16日

徳島大学留学生センター
上田 崇仁 うえだ たかひと

 

日本植民地における
ラジオを利用した日本語講座に関する研究の第一人者として

 

植民地を統制する「国語」教育

日本が朝鮮半島などを植民地とした時代、施策のひとつとして「国語」(日本語)教育がありました。地域ごとに編集した教材で、日本語の授業を現地の子どもたちに受けさせていたのです。また「国語」(日本語)教育にラジオを使っていた記録もあります。当時ラジオは高級品で、一部の人しか所有していなかったにもかかわらず、何をねらって放送を利用した日本語の教育を行っていたのでしょう。

上田先生はアジアにおけるラジオの「国語講座」、中でも朝鮮半島における「国語講座」の研究に関しては第一人者です

『朝鮮にラジオが登場したのは、内地に遅れること約2年、1927年のことであった。ラジオ語学講座の歴史はラジオ放送の歴史とほぼ一致しており、その中で「国語講座」がどのように展開したのかに興味を抱いた。

当時のラジオ年鑑を調べてみると、朝鮮に限らず、満州、台湾、シンガポール、中国(大陸)でも「国語」や「日語」(注)講座が放送されていることが分かった。また、南方占領地向けのテキストが放送博物館に所蔵されていることも分かった。当時のラジオプログラム欄の掲載されている新聞資料も手もとにあり、プログラム欄を一日ずつ確認していく作業を開始した(2000年11月)。ラジオプログラム欄の全時日の確認作業は、現在でも完了していない状況である(2005年1月)』(上田先生のホームページから引用)
(注)「日語」は当時資料の引用。中国や韓国では今でも「日本語」よりも「日語」を一般的に使っています。

 

先生は時間を見つけては韓国や日本各地に出向いて、当時の教科書やラジオ講座のテキスト・録音などを探しています。当時朝鮮半島の学校で使用されていた「国語」(日本語)の教科書については、2006年末にようやく全てを集めることができましたが、放送に関しては資料が少ないのが現状です。

「軍事的・政治的意図は別にして研究しています。でなければ、話がわかりにくくなりますから」

当時の「国語」(日本語)教育には、その語彙内容を除けば現代にも活かせる技術、メソッドが随所に見られるそうです。

 

先人の実績を今に活かす

上田先生は、徳大の本部棟南側に昨年オープンした、日亜会館二階の留学生センターで、日本語教育の担当をされています。ここには県下の大学で学ぶ予定の留学生が日本語の勉強にやってきます。学生もいれば母国での現役の教師や研究者もいます。徳島の大学で勉強を始めるにあたり、半年間の集中授業で、最低限生活に必要な日本語を話せるように教えています。

取材の日も、エジプト、バングラデシュ、タイ、ミャンマー、ラオス、インドネシア、フィリピン、ベネズエラ、中国からの留学生が勉強していて、さながらアジア・中近東の代表者会議のようでした。

先生は絵カードや日本語の書かれたカードを使い、難しい日本語のニュアンスの違いなどを身振り手振りを加えて教えていました。

戦時中の「国語」(日本語)の教科書を見ると、内容は植民地化の進行とともに変化はしていますが、実に効果的に教えていることがわかります。日本語をほかの言葉(学習者の母語や媒介語)を使わずに教えるために、例えば最初は、相手が知りたい、あるいは身近な言葉から始め、だんだん抽象的な教えたい言葉を教え込んでいく、というような教育方法です。
「当時の教科書を作ったのは、いわば私の同業者です。この時代に生きた教師の受けた政治的な理由による制限、不自由さにもどかしさを感じて切なくなります」 昨年、勉誠出版より出された『戦争・ラジオ・記憶』貴志俊彦・川島真・孫安石編)に、執筆者の一人として「朝鮮でラジオは何を教えたのか」との題で出稿。ご自分のホームページにもできる限りの資料の提示をし、収集の依頼と共有化を図っています。

今、日本で学んでいる留学生の大半は、過去、「国語」(日本語)が強制された地域からやってきているのです。学生の顔を見るたびに、当時日本の支配下で「国語」(日本語)を強制された人々の苦痛を考えます。そして戦争の統制下で苦労した当時の研究者や教育者を思いながらも、そこで試行錯誤して積み重ねられてきた研究を、現代に活かして、言葉が平和のために、良いコミュニケーションのために使われることを願って研究を続けています。

 


研究スタッフ、研究室の様子

 

[取材] 127号(平成19年4月号より)